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やまがたの商店街は寺からはじまった?:七日町 長源寺
〜シリーズ「寺、マイル」やまがた編 vol.2(後編)〜

やまがたの商店街は寺からはじまった?:七日町 長源寺
〜シリーズ「寺、マイル」やまがた編 vol.2(後編)〜
お墓情報, お寺情報 山形県
2019/01/15

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やまがたの商店街は寺からはじまった?:七日町 長源寺
〜シリーズ「寺、マイル」やまがた編 vol.2(前編)〜

 

 さて、日本のお寺の変わり目がやってくる明治の初頭。長源寺もまた然り。なにかのはじまりは、また、なにかのおわりをも意味します。

 

 幕末の山形藩筆頭家老水野三郎右衛門元宣。難局のなか藩主不在で実質の藩政を取り仕切りますが、最終的には幕府につき新政府に抗します。ついには幕府が敗れると、戦後処理に奔走し山形の民を戦禍から守りました。

 そして最期は自ら反乱の首謀者として首を差し出し、明治2年5月20日、長源寺の境内で処刑されてしまいます。若干26才。現在の最上記念館にあたりにあった水野邸から城門を出て長源寺までひったてられ処刑されました。葦原住職曰く、境内までの道中多くの山形領民が感謝と無念がないまぜになった涙を密かに流したと伝え聞くそうです。

 本堂の前には「水野三郎右衛門終焉の地」の石標があります。あまり知られていない話ですが、実際に三郎右衛門が処刑された終焉の場所はかつての本堂前で、現在は料亭四山楼となっている場所だそうです。

 

 切ないおわりは、しかしながら、希望のはじまりでもあります。土木県令の通称で有名な初代山形県知事の三島通庸が、山形に近代的商店街を作るために道路を切り開きます。そこで、城下の一等地にあった長源寺境内が解放されることとなりました。これが現在のシネマストリート「旭銀座」そして長源寺通り飲食街となったのです。

 

 ここで少々、ブラタモリよろしく、かつての長源寺の敷地を回想したいと思います。

 元三日町と通称される通りにかつての長源寺山門があり、そこからずっと北へ料亭四山楼の前あたりまで続く道路が参道でありました。杉林に囲まれた参道を抜けると、現在の長源寺通りの道路上を跨ぐように南向きに本堂が鎮座していたそうです。

 

 ちなみに、通称「元三日町」はその名の通りかつては「三日町」でありました。長源寺が現在の地へ移ってきたことで、同地にあった光禅寺もろとも門前の商人も町の名前もごっそりいっしょに現在の「三日町」に移ったそうな。

それから、これから。〜つづく長源寺と七日町のつながり

それから、これから。〜つづく長源寺と七日町のつながり

 こんなふうに、霞城公園が山形城であった藩政の時代から明治の新政府を経て今に至るまで、政治と商業の中心より程近いところにあり続けた長源寺。鳥居公の時代は、住職は籠でお城まで移動していたなんていう話も。

 

 寺の敷地が広大であった江戸初期にはさぞかし多くの檀家さんがあったのでしょう。と思う向きもあるかもしれませんが、実際は藩主の鳥居公の家臣を檀家に持つのみで城からの禄高で寺が保たれていたそうです。時は下り幕末から明治にかけての第28世住職の道円禅師(村山市出身)のころでも現在の1/4ほどの檀家さんの数だったというはなし。

 

 ちなみに、住職が妻帯つまり結婚できるようになったのもこのころ。それと同時に僧侶も苗字を持つようになり長源寺は今に続く「葦原」の姓を名乗ったそうです。その苗字の由来を葦原住職にお聞きしたのですが残念ながらわからないというはなし。

 そう言われると失礼ながら勝手に色々と想像してしまいます。例えば、ここからあたらしい長源寺が始まるということで、記紀に出てくる日本創世の地「葦原中国」からひっぱってきたのでは?あるいは、かつて文翔館前の通りを馬見ヶ崎川が走っていたことから、長源寺本堂の裏あたりに葦が茂っていたのでは?などなど。


 このあたりの記録がなぜ残っていないのか?その理由の一つが明治44年の「山形北部大火」。長源寺の本堂も全焼し、多くの文献は残念ながら消失しました。室町時代からある本尊の釈迦如来像が唯一難を逃れ現在も本堂に鎮座しています。

 現在の本堂は大正11年着工13年落慶。清水建設による施工で鉄筋コンクリートの本堂は当時全国でも珍しかったそうです。現在も5/11にお祭りが行われている観音堂は昭和5年に建てられました。地元山形の建築家山本氏が早稲田大学建築学科を卒業後すぐに設計されたそうです。

 

 この本堂と観音堂の建設は、現住職の祖父である第29世住職の時代に行われたもの。孫を孫扱いしない非常に厳しい祖父だったと葦原住職は回想します。子供の頃は、父が住職を務めていた谷地の慈眼寺から長源寺の祖父のところまで早朝自転車でお使い。その成果か、体力抜群で運動神経が良く、駒澤大学野球部出身の父の影響もあり、野球少年でありました。その後、駒澤大学の仏教学部へ進学しますが、当時は仏教学部は体育会活動ができず本格的な野球は断念したそうです。

 大学卒業後、葦原住職は24歳で永平寺での修行から戻り、谷地にある慈眼寺の住職に就任されました。その後、父である長源寺30世住職が50代の若さで急逝し、わずか3年で歴史ある名刹である長源寺の住職に就任した葦原さんはプレッシャーも相当大きかったそうですが、その後の活躍は冒頭でお話しした通り。

 長源寺さんには私自身よくお邪魔しますが来客の絶えないとても居心地の良いお寺です。

 長源寺通りをはさんだ向かい花寿司さんの脇「水野三郎右衛門元宣氏墓道」の石標から入ったところに檀家さんの墓地があります。長源寺通りの飲食店、旭銀座の商店、マンション、それらの裏手に囲まれ、ひっそりと在る墓地は格別なものです。

 山形の歴史に欠かすことのできない鳥居忠政公そして水野三郎右衛門さんのお墓参りに、山形市民であればぜひ一度訪れて欲しいですね。

y.Yonemoto

このページの起案者であり総括プロデュースを行う石材卸メーカー社長。

石材業界や地元企業団体、震災復興事業、地域貢献活動の役員などで幅広く活動中。

また災害ボランティアや地元を巻込んだイベントのプロデュースも行う。