・突然ですが質問です。あなたは、「あなたは何者ですか?」と聞かれたら、どう答えますか。また、そもそもあなたは、「自分は何者だ」と認識しているでしょうか?
・「あなたは何者ですか?」:
唐突な質問と思うかもしれませんが、禅の世界を理解する上で、これはとても重要な問いです。
多くの人は、「わたし」というものを説明するとき、「わたし」を構成する要素について語るのだと思います。それは例えば私なら、名前は 宇野全智です。年齢は 49歳です。職業は 曹洞宗の研究者です。肩書は 専任研究員です。出身は 山形です。大学では 生物学を学んでいました。年収は 内緒です。家族は 妻と2人の子供がいます。趣味は 美味しいものを食べる事です。今頑張っている事は 自殺問題と環境問題です。最近ハマっていることは 映画鑑賞です。親友は、〇〇さんと△△さんです。といった感じで、初対面の人に自己紹介をするときは大抵こんな感じになりますし、自分自身でも概ねこういった感じで認識している人が多いのだと思います。この場合、自己認識は「構成要素の足し算」として成立します。でも、私たちが当たり前のようにしている、この「足し算の自己認識」って、「禅の見方」から見ると、実は非常に危険なのです。それがどうしてか、わかりますか?それは・・・
・足し算の「わたし」から逃れるために:
足し算したものはいつか必ずなくなってしまうから。私たちの人生は実に、足し算の連続です。何も持たずに裸で「オギャー」と生まれてきた瞬間から、ひとつひとつ言葉をおぼえ、小学校に入り漢字をおぼえ、計算をおぼえ、学歴を積み重ね、就職して経験と実績を積み重ね、結婚して家族を増やし、ゼロからの出発で沢山のものを獲得してきた人生。でもいつかは、この積み重ねたものがなくなる時がやってきます。それは、離婚や失業かもしれない。病気や事故かもしれない。突然の誰かの死かもしれない。たとえ何か特別な出来事がないとしても、いつかは必ず仕事を離れ、家族とも離れ、蓄えた知識も経歴も手放して、死んでいかなければならないのが、私たちの人生です。私たちは誰でも、最後には積み重ねたすべてを手放して、旅立っていかなければならないのです。この事実に直面した時、自己認識が足し算の人は、猛烈に苦しむことになります。自分が一所懸命に集めた自分を構成するパーツが、否が応でも外れていくのです。まさに、身を千切られるような苦しみが、人生のピークを過ぎた後にやってきます。では、どうすればこの苦しみから逃れることが出来るのか。そこに禅の修行が目指す世界があります。
プロフィール:宇野全智
曹洞宗総合研究センター専任研究員。山形県大石田町地福寺副住職。1973年山形県大石田町生まれ。山形大学理学部生物学科卒業後、曹洞宗の僧侶養成機関で3年間、布教活動の実際を学ぶ。その後、福井県の大本山永平寺にて1年間修行。以後、曹洞宗の研究機関で仏教や禅の教えを分かりやすく伝え、また生活に役立ててもらえるようにするための冊子編集、研修会の運営などに携わる。近著に「禅と生きる ―生活につながる思想と知恵 20のレッスン」(山川出版社)がある。
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